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修学院フォーラム「いのちを考える」
第1回 生命哲学とキリスト教
これまでの生命倫理・医療倫理の枠を越えて、「いのち」をどのように考えるのか、その根本のところを様々な方のお話を伺いながら考えて行きたいと思います。
講師:ホアン マシア
(イエズス会士、文教大学客員講師)
東西の古代人と比べれば現代人は生命に関する知識および生命を操作する能力を何百倍も名十万倍も備わってはいるが、生命に関する洞察や生命に対して責任をもって扱う知恵はどの程度があるのでしょうか。
生命倫理が叫ばれはじめた70年代のころの神学者たちは多いに生命科学の発展と人間的な価値観との統合に取り組んでいたが、四十年後の今は、生命観を深く捕らえる宗教の貢献が生命倫理を見直すために必要とされている。
キリスト教の立場から生命倫理を考えなおすためには、聖書から示唆を受けたい。
次のように書かれている。「地にはまだ野のいかなる灌木もなく、野のいかなる草も萌え出ていなかった。神が地に雨を降らせず、大地に仕える人が存在していなかったからである。」 (創世記2, 5-6) どうして緑がないのかと言えば、二つの理由が挙げられている。天から雨がふり、人間が大地を耕すという二点である。雨は人間が作ることのできないいただきものである。大地を耕すのは人間の働きである。この二つは合交わって緑と実りが出て、大地が潤う。
ここに人間の手の二つのしぐさを思い起こそう。人間の手は合掌する手であり、仕事する手でもある。天から頂く雨、頂き物に対して合掌して感謝するのである。そして大地を耕して手を使って働くのである。 「耕す」というのは、「大地に仕える」ということである。大地を耕すということは人間に与えられた使命であり、そうして実らせる責任は人間に委ねられている。手で合掌するだけでは足りない。手で働かなければならないのである。
ところが、ここまでで話が終わればきれい事に成ってしまうが、実は合掌したり、働いたりする人間の手は人殺しする手でもあるのである。それは同じ『創世記』4,10-12に出てくるカインとアベルの話を読めばわかる。「神は言った。何ということをしてくれたのか。声がする。あなたの弟の血が大地から私に叫んでいる。口を開けて、あなたの手から弟の血を受け取った大地によって今や、あなたは呪われる。あなたが大地に仕えても、もはや大地はあなたに産物をもたらさない。」
このように『創世記』の2章と4章から引用した二つの個所を読んで聖書の生命観における重要な要点がそこに著されていることに気がつくのではないだろうか。 いのちとは、「いただきもの」であり、「預かりもの」であり、「壊れやすいもの」なのである。そして、「合掌する手」、「働く手」、「人殺しする手」、これが人間の姿である。
従って、頂いたいのちに対する私たちの態度は次のようにまとめられよう:
イ)頂いた賜に対して「感謝」すること。
ロ)課題や使命として、与えられた与りものに対してそれを実らせる「仕事」に取りかかること。
ハ)壊れやすいものに対する「気遣い」をもっていのちを見守ること。特に人間の心の中には善・悪の両面があるから、悪が打ち勝って命がお粗末にされてしまう結果にならないように気をつけたい。
2011年5月14日 (土) 13:30-17:30
場 所:関西セミナーハウス
参加費:2,000 円、学生 500 円
締切日:2011年5月11日
<講師プロフィール>
ホアン マシア(Juan Masiá ) 氏
イエズス会士、文教大学客員講師
1941年スペイン、ムルシア出身。1966年来日。1973年東京で司祭叙階。上智大学神学部教授と、コミリャス大学(スペイン)生命倫理研究所長を経て、現在は文教大学客員講師として「生命倫理」を担当するかたわらカトリック中央協議会で正義と平和協議会員を務める。 著書:『脅かされるいのち』オリエンス宗教研究所(2002) 『福音へのまなざし』新世社(2002) 『生命哲学』 教友社(2003) 『道徳の断章』聖母文庫(2004)『暴力と宗教』オリエンス宗教 研究所(2005)『イエスと共に』聖母の文庫(2006)